人間ってイーナ

イーナくんの妄想置き場

初恋

僕がまだ10歳になるかならないかってくらいのときだ。

 

親が離婚して、僕は母親に引き取られ、当時住んでた家を出て地方の県営団地に引っ越した。母の実家に帰らなかったのは今は母のプライドだったのだろうと分かる。強くて弱い人だったから逃げたと思われるのが嫌だったんだろう。

 

引っ越しの挨拶をしにお隣のインターホンを押した。

 

母は辛さを忘れようと仕事に没頭していて、僕はずっと一人だった。一人には慣れていたけれど住み慣れた家を離れたせいか、僕はどうしてもさみしくて、誰かと話したくて"引っ越しの挨拶"とやらをしてみることにしたのだ。

 

出てきたのはきれいな、とてもきれいな人だった。僕は少しの間、何も言うことができなかったと思う。そしたら、その人は言った。

 

「どうしたの」

 

僕は動揺しながら持ってきたものを突き出した。

 

「あ、あの。と、隣に引っ越してきたものです!!」

 

すこし声が上ずっていたと思う。その人は小さく笑って

 

「ふふ。なんか小糸ちゃんみたい。……上がってく?」

 

と言った。全然意味がわからなかった。

 

 その人は透さんといった。部屋はとても殺風景で生活感はなかった。真ん中の小さなテーブルに一つだけ写真が置いてあり、布団が敷いてあって端には白色の大きなスーツケース。それ以外にはなにもなかった。

 

 透さんは僕が持ってきたものを見てまた笑った。何を持っていくのが正しいのかわからなかった俺がお酒を持っていったからだ。父が時々、酒を持ってこいと怒鳴るから大人はお酒が好きなんだと思っていた。

 

「まだ未成年」

 

 嘘だろって思ったけど本当にまだ19歳らしい。結局、透さんはそれを飲まなかった。その日は母が帰ってくるまで僕は透さんの家にいた。他愛のない会話がぽつぽつとあったけど、透さんも別に喋る人じゃないし僕は当然喋らない。だけれども嫌じゃない静けさが僕たちを包んでいた。

 それからも時々透さんの家に行った。新しく通った小学校で友達はできなかったし、母は朝早くにでかけて夜遅くに帰ってきて僕と喋ることもなかった。今思うと、何となく寂しそうな僕に透さんも何か感じることがあったのだと思う。

 

 ある日のことだ。透さんの部屋の前に男の人が立っていた。背が高くきれいにアイロンがかけられたスーツを着ていた。その男の人は僕がすれ違ったときに少しだけ微笑んだ。なんとなく居心地が悪くって僕は少し早足で俯きながら通り過ぎた。振り返ると男の人は

 

 「また来るから」

 

と言って帰ろうとしてた。僕は勇気を出して声をかけた。

 

 「あ、あの。ストーカー?、ですか?」

 

 「え!?いやそんなんじゃないよ!」

 

 「ただ、……」

 

 男の人は透さんのプロデューサーらしかった。突然仕事をやめ、家を飛び出した透さんを探していたらしい。この人がプロデューサーとかそんな話は飲み込めなかったけど、透さんがアイドルだって話はすんなりと腹に落ちた。だってあの人は特別だと思ったから。一目見たときから透さんは普通とは違っていたから。

 

 次の週くらいだったと思う。家のインターホンが鳴って、玄関を出ると透さんがいた。

 

 「引っ越しの挨拶?」

 

 「引っ越しの挨拶は行った先でやるんだよ」

 

なんとなく分かっていた。泣かずに言えたと思ってたけど、透さんは僕を抱きしめて言った。

 

 「言葉にしないとわかんないことってあるよ」

 

 それで話はおしまい。少ししてテレビで透さんを見たときは驚いたけど、彼女にはそっちのほうが似合ってた。多分、小学生のガキなりの初恋だったと思うけど、透さんは覚えてないだろう。そういう人だから。